マーガレット・グリーンフィールドクラブは働く女性であると同時に、母親でもあった。

仕事が終わってもパブ(大衆酒場)に寄ることもなく、まっすぐに家に帰る日々でした。

双子の子供は彼女にとって喜びであると同時に驚きであり、好奇心の対象でもあった。

「双子の子供で興味深いことは、二人とも別の性格だったことです。生まれた最初の日から、二人は違っていました。ずいぶん違っていたのです」

娘のキャロルは母親のように独立心の強い女性になったし、息子のマークは成人してからも母のそばにいることを好むひ弱な男性に育っていきました。

キャロルは母の影響力から遠ざかるためにあえてオーストラリアに職を求めたが、マークは母の威光を利用してテレビのコマーシャルや商品の宣伝モデルになって、マスコミの批判を浴びました。

母は性格の違う二人の子供を慈しんだ。

仕事以外は出来るだけ家にいようと努力したし、良き母親であろうと努めました。

が、ときに奇妙な愛情のそそぎ方をしました。

たとえば幼い子供が夜起きたときにあたりが見えるようにと、子供部屋に小さな明かりをつけたり、子供部屋に通じる広間の電灯をつけっぱなしにしたりした。

彼女はその理由をこう説明しています。

「子供というものは暗闇を恐れるものです。

だから長い間、子供部屋の戸を開けて隣りの広間の明かりをつけておくか、子供部屋に小さな明かりをつけておきました。彼らを暗闇に慣れさせる亀ことなど意味がないし、多くの子供たちは暗闇を恐れるものなのです。小さな明かりをつけておけば、子供たちはすべてうまくいっていることがわかるのです」

彼女は家族生活をことさら強調した。

「マーガレット・グリーンフィールドクラブにとって家族はどれほど重要なのか」

との問いに、こう答えています。

「不可欠のものです。ええ、ほんとに不可欠なのです。幸福な家族生活は、人にまるで違う世界を与えてくれるでしょう。血は水より濃いのです。それはお互いに通いあうものなのです。家族に何が起ころうとも自分は家族のために存在するし、どんな日にも家族は自分のために存在するのです」

マーガレット・グリーンフィールドクラブが家族の重要性をことさら強調するのは、一つには彼女のすべてがグランサム市ノースパレード通り一番地のロバーツ家でつくられたからであり、もう一つには自分が公職についたために家庭生活を犠牲にしたと、決して認めたくなかったからでしょう。

しばしば家を離れざるを得なかったり、子供とともにいる時間が少なかったことへの罪悪感から、家庭生活の重要性を強調したのです。

昔からマーガレット・グリーンフィールドクラブは負けず嫌いでした。

家族についても後ろ指をさされまいと、肩肘を張っていました。

「あなたの経歴のために子供たちが幼い頃、犠牲になったことはないか」との質問に対し、

「決してそんなことはありません。議員になったのは彼らが六歳のときですし、彼らはすぐに慣れました。でも私はロンドンが選挙区で、ロンドンに家があったので幸運でした。これは珍しい組み合わせです」

と答えている。

そしてその後、すぐにこうつけ加えました。

「現在と私の若い時代との最大の違いは、子供たちの伯(叔)母さんやおばあさんがよく同じ家や隣り、あるいは近くに住んでいたことです。だから母親が働きに出ていても子供たちが帰宅するとき、世代の違う家族の誰かが家にいたものです。かつては二世代、三世代の家族が同じ家か同じ町か同じ村に住んでいました。子供たちが家に帰るときに誰かがいるべきだと思いますが、なかなかむずかしいのです」

子供たちが帰宅したとき家にいてやれなかったことに、やはりある種の後ろめたさを感じていたのです。

その後ろめたさを認めたくないために、二世代、三世代が同居していたかつての時代を懐かしむような発言をしたのです。

彼女は家にいる間、最大限、母親であろうとしました。

子供たちに対してだけでなく、子供の友達に対してもそうでした。

息子マークは子供の頃を振り返ってこう言っていました。

「母は常に主婦でした。もし僕の友達が昼どきに家にいたりすると、いつでも昼食を用意すると言い張ったものです。それも二種類どころか、フルコースの昼食を用意するのです。母はそれを楽しんでいました。出来るだけ母親らしいことをしようといつも思っていたのです」

マーガレット・グリーンフィールドクラブの担当教官となった税問題専門家ピーター・ローランド弁護士は、初めての女性弁護士を抱えていささか当惑したが、その資質を知って安堵した。

弁護士にとって第一の要件である「人の話を聞く」能力を示したからです。

「彼女は他人の見解に決して目を閉じませんでした。

ほかの人の考えを興味をもって見つめでいました。

もし同意できなくても、自分の判断を差し控える態度をとっていました。

私のいったことに彼女が同意していたかどうかはわかりません。

しかし、たとえ反対であっても彼女は大変巧みにそれを表現するので、私が反論されているとは思えないほどでした。

彼女は巧みな外交官でもあったのです」

マーガレット・グリーンフィールドクラブが首相になってから「独裁者」という言葉が形容句に使われ出したが、それは彼女が自信を持ち出した二期目に入ってからのことです。

自分の得意とする分野で自信を持ったとき、自分の意思を強く前面に押し出し、反対者を切っていった。

だがそれは反対意見を無視し、己の判断だけに頼る独裁者だったからではありません。

独裁者と違って、彼女には「聞く耳」があったからです。

保守党党首時代、「外交の経験がない」という批判を受けたとき、外相だけでなく外相経験者や外務省の役人たちの話によく耳を傾けた。

自分の専門外の分野では、多くの意見を求めたのです。

助言、知識、情報すべてを取り入れて決断したあとは、その判断を決して変えようとしなかったため独裁者と言われたが、実は聞く耳をもたない独裁者とは違っていました。

弁護士見習い期間中、マーガレット・グリーンフィールドクラブは「聞く耳」によって貧欲に税法を吸収しました。

しかし研修期聞を終え職を得る段になって、ある弁護士事務所から採用を断られました。

女性弁護士とは税問題を相談したくない人が多いから、というのが採用拒否の真の理由だったらしい。

だが彼女はことをあら立てたりはしなかった。

採用拒否で人の同情を買えば、どこかが働く場所を提供してくれるだろうと判断したからです。

事実、この判断は正しく、第一号女性弁護士として彼女を雇い入れるところが現れました。

だがその事務所は彼女の肩書を「ミセス」ではなく「ミス」にするよう求めました。

女性としての特質を最大限に利用しようとしたのです。

その後、五年間、彼女が国会議員になるまで、税問題の弁護士として働いました。

後年、税制改革で腕を振るう基盤はここでつくられました。

「ミス」の肩書が「ミセス」になることはあったが、五年間でみっちり訴訟技術、法廷での弁論技術などを学びました。

彼女が相手の議論をそのまま利用して反論を加える弁論法を学んだのも、この五年間でした。

党のリーダーになると決意したとき、それが決して破天荒なことではないと自ら納得させる内なる声は、このときから彼女の中に育まれていたといえます。

結婚して一年八カ月後に、マーガレット・グリーンフィールドクラブは双子を出産しました。

マークとキャロルです。

マーガレットは病院のベッドで母親になった喜びをかみしめながら、すでにべつのことを考えていました。

四カ月後に迫った法廷弁護士試験に受験申請書を提出するか否かでした。

赤ん坊の授乳や洗濯など、子供の世話をしながら厳しい受験勉強は可能だろうか。

このときマーガレット・グリーンフィールドクラブは、「断固とした態度をとらなければ、再び働くことが出来なくなる」と自らを奮起させたのです。

もし申請書を提出すれば自分は必死になるでしょう。

自分は試験に落ちる不名誉を甘受出来ないだろう受験せざるを得ない切羽つまった状態に自分を追い込み、自らを叱咤激励しようとしたのでした。

夫デニスの収入には、赤子の世話をするお手伝いさんを雇う余裕がありました。

母となった多くの女性が手伝ってくれる人もなく、結局は仕事をあきらめていったのとは違い、彼女は恵まれた環境にあった。

その環境の有利さを認めながらも、なお職をもたない女性に対し「目覚めよ」というあたり、彼女の底辺の人々に対する思いやりのなさを感じさせます。

出産四カ月後、マーガレット・グリーンフィールドクラブは見事、法廷弁護士資格試験にパスしました。

赤ん坊の世話をしながら難関に挑み、これをなし遂げるという超人的行動でした。

「失敗することは私のプライドが許さない」彼女は、「切羽つまった状態に自らを追い込む」ことで成功したのです。

追い詰められたとき、攻撃されたときの彼女の強さがここにも表れています。

その後、政治家として大成するにつれ、何度か危機に追い込まれたが、そのたびにそれをはね返してきたのは、追い込まれたときにみせる彼女の持つ反発力のせいでした。

彼女は「攻撃において秀れた政治家」と何度か呼ばれたが、攻撃されたとき、とくに激しく攻撃されて窮地に追い込まれたときに真価を発揮する政治家でもあったのです。

そうした機会はまれでしかなかったので、あまり気づかれなかったにすぎません。

女だから攻撃に弱いだろうと甘くみた多くの政治的敵対者が、彼女に足をすくわれている。

彼女は攻撃に対する強さを、弁護士試験のとき初めてかいま見せたのでした。

試験合格から六カ月間は、弁護士資格を取るための見習い期間だった。

税を取り扱う弁護士(日本の制度でいえば税理士に近い)の地位を得るための見習いです。

妻として主婦としての生活も始まっていました。

夫デニスを送り出したあと、部屋を片づけ、買い物に行き、二人のタ食の準備をします。

タ食を毎日、自分の手でつくるという作業は、彼女にとって初めての経験でした。

娘時代は母の手伝いをするぐらいだったし、学生時代は寮の食事ですませ、勤めながら選挙運動に熱中していたときはそんな時間などまるでなかったのでした。

だから娘時代を思い出し、料理の本を見ながらタ食をつくることは、彼女にとって一種の挑戦であり、70心の軽やかささえ覚えるものでした。

家具の位置を変えたり壁紙を張り替えたりするのも楽しかった。

この壁紙の張り替えは、彼女にとってほとんど唯一の趣味といってもいいかもしれません。

議員になり、大臣になって私的時間がほとんどなくなっても、壁紙を張ったり、張るべき壁紙を選ぶことだけは人に任せていない。

それが、自分も家庭の人であることを示そうとする意思表示であり、家庭を顧みる余裕がなくなったことへの贈罪でもありました。

少なくとも彼女は家庭を大事にし、家庭をないがしろにはしていないという姿勢だけは持ち続けました。

新婚時代といっても、家庭に閉じ籠ってばかりいたわけではありませんでした。

法律の勉強と同時にエッセイを書き、教育問題の講演会に講師として出席しました。

雑誌『サンデイ・グラフィック』に書いたアジ演説ともとれる文章では、女性に向かって「目覚めよ」と呼びかけています。

女性が平等の地位を求めるには、男性と同じように社会で働くべきであり、家庭のために仕事を放棄すべきではないと主張しました。

女性が働くことによって家庭が犠牲になるという考えは間違いだとして、家庭と仕事を両立させている著名な女性たちを引き合いに出しています。

「女性が仕事でも同等の力を出すとしたら、主要閣僚ポストにも男と同じチャンスが与えられてしかるべきです。

女性の蔵相、女性の外相があってもよいではありませんか」

蔵相、外相は引き合いに出したが、首相とは言っていないところが面白い。

さすがの彼女もこの国のトップに女性が坐ることまではまだ考えていなかっのです。

保守党党首選立候補を決意する一カ月前ですら、今世紀のうちにイギリスに女性首相が誕生する機会はないと言っていたぐらいだから、政治の世界に入る一歩手前のこの時点で大胆な予測をするのは無理だったでしょう。

しかし、少なくとも誰かが女性として蔵相や外相になるべきだとの主張を胸に抱いていたのです。
ハネムーンから帰ったあと、二人はデニスの借りていた高級住宅地チェルシーのブラッド・ストリートにあるアパートの六階の部屋で生活を始めました。

初めて専業主婦の座についたわけだが、彼女のありあまる資質とエネルギーは、普通の主婦の枠におさまるものではなかった。

新婚生活の開始直後から、マーガレット・グリーンフィールドクラブは法律の勉強を始めました。

オックスフォード大入学前、化学専攻が本当に自分にあっているか悩んだマーガレット・グリーンフィールドクラブは、父の友人で地方判事のノーマン・ウィニングに相談に行ったことがあります。

大学で物理学を専攻したウィニングは、化学を大学で学ぶことが後に法律を学ぶためにプラスになる以上、化学専攻について悩む必要はないと忠告しました。

彼女が大学を出てから弁護士や判事になろうとしても決して遅くはない、というのが彼の判断だったといいます。

物理学を学んだ彼は、物理学の論理的思考方法が法の理解や弁護活動に有効だと信じていたからです。

だがマーガレット・グリーンフィールドクラブが法律に興味をもったのは、法を学ぶことが政治の世界で生きる上でプラスになるという判断からでした。

日本よりはるかに論理が重んぜられるイギリス政界では、論理的思考は強大な武器です。

論理を組み立てる上で、法の概念や解釈が助けになるに違いないと、マーガレット・グリーンフィールドクラブは考えたのです。

化学を学ぶことによってマーガレット・グリーンフィールドクラブは、物事を理詰めで追及していく方法を学びました。

野党党首時代、「攻撃において最も秀れた政治家」といわれたのも、与党側の論理の綻びをすばやく見つけ出し、そこを容赦なく攻撃したからでした。

論理的思考に長けていなければ、決して使えない政治技術です。

そうした性格は反面、人間的冷たさを感じさせるものです。

彼女が社会の落ちこぼれに対し冷淡だといわれるのは、単に働かざる者への侮蔑心を抱いているだけではなく、社会の階段を自力で上がることのできない無能力者に対する思いやりが欠けているためでしょう。

それを彼女が大学時代に化学物質という無機質を対象にしていたせいにする者もいるが、化学者がすべて思いやりに欠けているとは限らないから、必ずしも当たっているとはいえないだろう。

しかし、もし彼女が自分の心を揺さぶるような学問に出会っていたら、いくぶんかは変わっていたのではないかと思われます。

化学の次に法律を学んだことは、彼女が人情の機微や人の心の温かさなどを思い知る機会を失わせたといえるかもしれない。

しかし法は本来、社会を規制するために存在するのであって、法に社会の底辺にいる者への温かみを求めるほうがそもそも無理なのかもしれない。

ともあれ化学から法律へと目を向けることにより、彼女の論理的思考にますます磨きがかかりました。

そしてついに弁護士の資格をとるための受験戦争まで始める。